もしも、異性体の比率を予測できることができればどれだけ便利でしょう。量子化学計算では、ギブズ自由エネルギーを求めることで比較的簡単に異性体比を算出することができます。今回は、異性体比の計算について具体的な方法と注意点を紹介します。
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量子化学計算で異性体比を求めるには?

ある異性体と、もう一方の異性体の異性化速度が釣り合い、巨視的に異性体比が変化しない状態を「平衡状態」と呼びます。また、二つの状態のエネルギーが異なる場合の物質量の比は、平衡定数Kで表されます。平衡定数は、異性体間のエネルギー差に関係づけられるため、アレニウス式を用いいることで容易に求めることが可能です。

K = exp(-ΔG/RT)

ここで、 ΔGは異性体間の自由エネルギー差(J/mol)、Rは気体定数(8.13J/K・mol)、T は絶対温度(K)です。つまり計算化学の分野では、GAMESSなどの量子化学計算パッケージを用いて平衡関係にある各異性体のギブス自由エネルギーを求める必要があります。あとは、求めた各異性体間のエネルギー差ΔGを用いて、先程のアレニウス式より平衡定数Kを求めることで各異性体の比率(%)を導出します。
例えば、⊿GがゼロであればK=1なので異性体比は50:50ということになりますよね。

メチルシクロヘキサンを例に考えてみよう

メチルシクロヘキサンは、シクロヘキサン環にメチル基が1つ結合した構造です。立体異性体(配座異性体)には、シクロヘキサン環の環反転に伴う「いす型配座」と「船型配座(ボート型)」などが存在します。これらの中で置換基同士の立体的反発が一番小さく安定なのが「いす型配座」です。さらに、メチルシクロヘキサンのメチル基がいす形配座の垂直方向に位置しているか、水平方向に位置しているるかの違いがあります。
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この時、水平方向の結合は「エクアトリアル(Equatorial)結合」、垂直方向の結合を「アキシアル(Axial)結合」といいます。メチルシクロヘキサンの環反転は、室温付近で非常に速く進行することが知られています。つまり、エクアトリアル型とアキシアル型は平衡状態にあると言えます。

安定ないす型配座では、1位のアキシアル位にあるメチル基が3,5位のアキシアル水素の立体障害になり不安定化します。そのため、メチルシクロヘキサンの環反転の平衡はメチル基がエクアトリアル位にある異性体に傾むきます。ちなみに、この立体的な相互作用を1,3-ジアキシアル相互作用(1,3-diaxial interaction)と呼びます。
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B3LYP/6-31G(d)で構造最適化した、いす型配座におけるメチル基のエクアトリアル型とアキシアル型のCPKモデル(空間充填モデル)を上図に示します。アキシアル型が空間的に混み合っている様子がわかると思います。それでは実際に、このエクアトリアル型がアキシアル型に比べどの程度安定で、室温においてどのような異性体比率で存在しているのかを計算で予測してみましょう。

メチルシクロヘキサンの異性体比を計算してみよう

ここでは、メチルシクロヘキサンのいす型配座におけるメチル基のエクアトリアル型とアキシアル型の異性体比率を計算します。エクアトリアル型とアキシアル型の各構造を、それぞれ構造最適化振動解析により熱力学的諸量を求めましょう。今回も、Firefly(PC GAMESS)を用いて計算します。入力ファイルに使用したキーワードは以下の通りです。
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キーワードは全て既出ですので、分からない場合は過去の記事を参考にしてください。計算に使用したファイルは記事の一番最後に置いておきます。計算の詳細はアウトプットファイル(.out)から確認してください。

MP2/6-311+G(d,p)では、アキシアル型からエクアトリアル型の自由エネルギーを引いた⊿Gが2.01kcal/molになりました。つまり、エクアトリアル型が⊿Gの値だけ安定であることが予想されます。このことから、異性体比率はエクアトリアル型:アキシアル型 = 96.7:3.3であることが求まります。Excelで纏めた表が以下になります。熱力学的諸量の各値は、MaSKのExtend Summary画面をコピーペーストすると便利です。
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計算で得られた異性体比は、NMRより求められた実験値 95.0:5.0 (⊿G=1.7kcal/mol)と比較して、まずまずの結果と言えます。ちなみに、B3LYP/6-311+G(d,p)では⊿G=2.52kcal/molとコンフォメーション間のエネルギー差が実験値と比べて過大評価する結果になりました。

一般的にB3LYPモデルは、ねじれの歪エネルギーに因る構造的エネルギー差を過大評価する傾向にあることが報告されています。詳しく知りたい方は下記の論文をチェックしてみてください。
J. Phys. Chem. A, 101, 7426 (1997). DOI: 10.1021/jp971606l )


異性体比を求める際の注意点は?

異性体比の計算自体はこれまで紹介してきた計算の応用なので比較的簡単だったと思います。しかしながら、実験値と比較する場合には十分注意する必要があります。以下に異性体比を計算する際の注意点を2つ挙げます。

1) エネルギー値は化学的精度が必要?
今回の場合⊿Gが2.0~2.5kcal/molと、たった0.5kcal/mol程度違うだけで2%近く異性体比が違ってきます。これは、⊿G値がexp項に含まれるので、僅かなエネルギー差の違いでも異性体比に大きく影響するからです。このことからも、自分が求めたい精度によって理論基底関数は十分に精査する必要があるといえます。
論文などの計算例を参考にしたり、色々な基底関数を試してみたりしてその傾向を確かめることが重要なことを覚えておきましょう。

2) 真空中の計算で問題ない?
今回計算した結果は、真空中 1atm, 298.15Kでのエネルギー値です。一方、メチルシクロヘキサンの実験値として用いた値は、CHClF2-CCl2F2溶媒中-110℃でNMR測定した値です。もし、温度や溶媒で異性体比が変化する場合は、PCM(連続誘電体モデル)法などで溶媒効果を取入れたり、計算に温度条件を指定したりする必要があります。
異性体間の相対的安定性が溶媒によって逆転することは珍しくありません。アセチルアセトンのケト-エノール互変異性体が良い例です。
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水中ではアセチルアセトンのケト体が安定ですが、シクロヘキサン溶媒ではエノール体が安定で異性体比は逆転します。これは、水のような極性溶媒より非極性溶媒中でケト体の分子内水素結合をとった方が安定化の寄与が大きいからです。PCMによるケト-エノール互変異性化に関するベンチマーク結果が報告されているので、興味がある方は下記の論文を覗いてみてください。
J. Phys. Chem. A, 119, 8724 (2015). DOI: 10.1021/acs.jpca.5b04116 )

また、特に注意が必要なのは、溶媒分子自体が異性体の構造の一部として安定化に大きく寄与する場合です。その場合は、溶媒分子を目的の構造と相互作用させたモデルを作成するなど、適切な初期構造を用意しましょう。


おわりに

今回はメチルシクロヘキサンを例に、異性体比率の計算方法注意点について紹介しました。まずは、計算対象の化合物の異性体比をどの程度の精度で知りたいのかや、溶媒や温度の影響を受けないかなど計算計画を立てることが重要です。
また、多数のコンフォメーションを有する化合物の場合、どの構造を計算対象にするかを吟味する必要もあります。その場合は、”部分構造最適化をしてみよう”で紹介した方法などを利用して、各コンフォメーションのエネルギープロファイルを作成してみると良いでしょう。分子力学計算(Avogadroで利用可)やMOPACの半経験的分子軌道法などを利用して、安定構造をスクリーニングするのも一つの手です。

この記事で使用した計算ファイルを以下に置いておきます。
http://pc-chem-basics.blog.jp/Methylcyclohexane(Isomer-Ratio).xlsx
http://pc-chem-basics.blog.jp/Methylcyclohexane(Axial).out
http://pc-chem-basics.blog.jp/Methylcyclohexane(Equatorial).out

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